源平交代政権思想論

第1章序論
古くから日本には、「源平藤橘」と言う氏族がある。「四姓」とも呼ばれ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏の 子孫が現代まで続いている。
江戸幕末期においても、藤原氏が公家の約80%以上を占めていると言われ、全国的に見ても源氏・平氏・ 藤原氏で90%以上をしめていたと言われている。そして、江戸時代までの政治は皇族を除き、この「四姓」 の一族によって行われて来たと言って良い。
そこで今回は、源氏と平氏に的を絞り、「源平交代政権思想」について述べたいと思う。
日本は武士による支配、つまり武家政権がもっとも長い。その流れは、公家の支配が藤原氏とその子孫によ って構成されるとするならば、武士の支配は、源氏と平氏の一族・子孫よって構成されると言って過言ではな い。
源氏と平氏は、共に皇族賜姓が行われた氏族であり、「四姓」の中の1つである。皇族賜姓とは、天皇の皇 子・皇女・皇孫が、姓を賜って臣籍に下る事を言うのであるが、その理由は、経費削減が大部分を占めていた。 また、臣籍に下った皇族を賜姓皇族と言い、他には在原氏や橘氏がある。
源氏は嵯峨源氏が初めとされ、合計32人に源朝臣を与え、降下を断行した。また源姓の由来であるが、嵯 峨天皇が漢籍に詳しく、「魏書」源賀伝にある故例にちなみ「汝らと朕は源が同じいから、今から源を氏とせ よ。」との意味を込めた為である。
嵯峨源氏の他には計19の源姓が存在し、以後、仁明源氏・文徳源氏・清和源氏・陽成源氏・光孝源氏・宇 多源氏・醍醐源氏・村上源氏・冷泉源氏・花山源氏・三条源氏・後三条源氏・順徳源氏・後嵯峨源氏・後深草 源氏・亀山源氏・後二条源氏・正親町源氏がある。
子孫は公家・武家として活躍した2流が存在し、最も栄えたのは武家の清和源氏の流れである。故に一般的 に、「源氏=清和源氏」のイメージが強いだろうと思う。また、公家源氏としては、宇田源氏・村上源氏があ る。
清和源氏は、清和天皇の孫である経基王が源姓を賜った事に始まる流れであり、後に源頼朝に至り、鎌倉幕 府を設立し武家政権の基礎とも言うべき土台を築いた。
先にも述べた通り、源氏と同様に皇族賜姓に平氏一族がある。
平氏一族は、桓武天皇の皇子達、特に第5皇子葛原親王が臣下に下ったのが初めとされ、その由来は、「平 安京」の創設者である桓武天皇が、国の平和(平安)を祈って平城京から遷都した事にあり、平姓も同じ想い が込めた為である。
平姓には全部で4種類あり、一般に平氏と言った場合、平清盛を後に輩出した桓武平氏(特に伊勢平氏)を 言う。他には、仁明平氏・文徳平氏・光孝平氏の3種類がある。
これから述べる「源平交代政権思想論」とは、藤原氏衰退後に平清盛により栄華を極めた桓武平氏一族及び、 平氏滅亡後に源頼朝により鎌倉幕府開設に至った清和源氏一族との政権交代の話である。

第2章「源平交代政権思想論」とは?
日本の歴史を見ると、公家と武家により政治が行われて来た。そして、武士による武家政権が公家政権より も長い。それは、1167年(仁安2年)に平清盛が官位(かんい)相当制(そうとうせい)の最高位である太政 大臣に任命された事に始まり、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が、大政奉還を行った1867年(慶応3年)十 月14日に幕を閉じる。
この様な武家による政治の中で、政権担当者は、源氏と平氏の一族・子孫により構成されていると言う史実 がある。その流れをまとめると、次のような図で表す事が出来る。

平清盛(平氏)→源頼朝・源頼家・源実朝(源氏)→執権北条氏(平氏)→足利氏(源氏)→織田 信長(平氏)→明智光秀(源氏)→豊臣秀吉(農民・仮平氏・藤原氏)→徳川氏(源氏)

この図で注目したいのは、鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府の創設者である。それを見ると、征夷大将軍が全 て源氏(清和源氏)の血筋である事が解る。
征夷大将軍とは、平安初期、蝦夷征討のために臨時に派遣された遠征軍の指揮官であり、源頼朝が鎌倉幕府 を成立されるとそれ以後、武士の総大将の代名詞となった。幕府とは、征夷大将軍が合戦時に陣を開いた時に 周りを囲った幕が語源とされている。
また、豊臣秀吉の家系に藤原氏が加えられているのは、関白と太政大臣に任命されるには農民出身ではなれ ない。そのため、系図上(形式上)、藤原氏の方が良いと考え、摂関家に養子に入ったためである。
それでは、各幕府の創設者が「源氏」の血筋である事の意味するものは、何か?
それは、古代の坂上田村麻呂、鎌倉時代の源氏滅亡後の親王将軍・摂家将軍や南北朝期の後醍醐天皇の皇子 である成良親王・護良親王など、いくつかの例外はあるものの征夷大将軍は、源氏の血筋しか任命されていな い事を意味している。裏を反して言えば、平氏の血筋は、征夷大将軍になれないのである。これは慣習化され ていて、現にこの故例に則り、必要上、徳川家康も家臣であった吉良氏の系図に連なったと言う説もある。 しかし、源氏が代々征夷大将軍に任命される故例に反し、平氏征夷大将軍が誕生した可能性がある。織田信 長がその人物である。
彼自身、古い故例にとらわれる人物ではなく、逆に従来の慣習を打ち破るのに生きがいを感じる男であった ようだ。
最終的には、明智光秀に裏切られ自害してしまうが、明智光秀の謀反の原因は、「源平交代政権思想」の裏 にある平氏征夷大将軍阻止ではないかと私は、考えている。
次の章からは「源平交代政権思想論」について、少し各論的なものを述べて行きたいと思う。時代ごとに順 を追って見て行く事にする。

第3章「平交代政権思想論」各論
(1)平安時代末期〜鎌倉時代初期

先にも述べた通り武家政治が始まるのは、1167年(仁安2年)平清盛が、官位相当制の最高位である太 政大臣に任命された時期と言って良い。
そして、源氏と平氏の一族・子孫によって構成される「源平交代政権」の開始の時期でもある。
藤原道長・頼通の例に見るように、天皇の外祖父と言う外戚関係において摂関政治を行い、栄華を極めた藤 原氏(北家)が衰退すると、武士の台頭が目立って来る。
このような現象の中で、いち早く頭角を現したのが桓武平氏であり、その一派の伊勢平氏である。そして、 平清盛の時代になると、藤原氏と同じように安徳天皇の外祖父となり、1167年(仁安2年)に武士として 始めて太政大臣に就任し、政治を行った。
しかし、それ程平氏政権は長くは続かず、当初、平氏の陰に隠れていた形の源氏(清和源氏)が台頭し平氏 は、1185年(文治元年)に壇ノ浦において滅亡してしまう。その後、1192年(建久3年)に源頼朝が 鎌倉幕府を創るに至り、武家政権の基礎を確立した。
これは、公家・武家の2元政治が始まったと同時に、1回目の源平の政権交代が行われた事を意味する。 1回目の政権交代劇において、平家本流は滅亡してしまう。これは、少なからず中学校ないし、高校までの 日本史あるいは、社会科の授業で習ったと思う。
しかし、本流は滅んでしまっても、いわゆる、庶流と言うものが存在する。その庶流から出たのが、鎌倉幕 府執権の北条氏である。

(2)鎌倉時代
平氏が壇ノ浦で滅亡し(1185年・文治元年)、源氏の棟梁である源頼朝が1192年(建久3年)に鎌 倉幕府を開設する事で、1回目の源平の政権交代が行われた。
その後、3代将軍源実朝が2代将軍源頼家の遺児である公暁に殺され、わずか3代で源氏将軍家は滅んでし まう。
しかし、この3代将軍源実朝暗殺計画を公暁1人の力で計画し、実行したとは考えづらい。これには、何ら かの陰謀があったようだ。その陰謀とは、何者かが、公暁に「あなたの御父上は、あの実朝に殺されたのです よ。」と、吹き込み殺させたのではないかと言うものである。
当時、執権職にあった北条氏は、時政を始祖とした桓武平氏の流れにあるとされる豪族であるし、鎌倉幕府 将軍家が滅亡すれば、事実上の政権を掌握できる。そこで私は、幕府の重要な地位である執権職が一族にある のにも関わらず、平氏政権復活を考え鎌倉将軍家を滅ぼしたのではないだろうかと考えている。
また、日本戦国史(日本中世史)の第1人者で、静岡大学教授の小和田哲男氏の考察を紹介したい。
小和田氏は、「歴史おもしろかくれ話」と言う本の中の「源実朝暗殺の本当の黒幕は誰か?」の1説で作家 の永井路子氏の推理を紹介し、次のように考察している。以下は、それを要約したものである。

【小和田氏考察】
鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺されたのは、1217年(建保7年)1月28日の事で、この日は、前年1 2月に任命された右大臣拝賀の儀式を鎌倉の鶴岡八幡宮の社頭で行われる日であった。この時、先導役は文章 博士の源仲章が務めているが、本来、この先導役は、源実朝の叔父である北条義時であった。北条義時は、 「体調が優れない。」として源仲章に代わっているのである。もちろん、真っ先に疑われるのは北条義時であ る。
ところが、ここに2つ疑問が出て来る。
1、先導役の源仲章も殺されている点
2、公暁が三浦義村の屋敷を目指し、その近くで殺されている点
この2点は、黒幕が三浦義村であったとすれば自然と答えが出て来る。
実行犯の公暁の狙いが3代将軍源実朝、そして、三浦義村が幕府の実権を握るために狙ったのが北条義時で あった。
しかし、北条義時もこの計画を知り、先導役を交代し難を逃れる。そして、公暁らは北条義時を打ち損じる のであるが、打ち損じを演じた公暁を自己の保身と口封じのために殺した。こう考える事により、三浦義村の 黒幕説は、明確になってくる。
また、先導役の代役である源仲章をも殺したのは、公暁が先導役交代の事実を知らなかったためではないか と、作家の永井路子氏は推理する。

以上が、小和田氏の考察である。
ここで三浦氏の血筋について説明しておきたい。
三浦氏は「尊父文脈」によれば、桓武平氏の流れである。平良茂の子孫とも平良文の子孫とも言われている が、どちらにしろ、北条氏とは同族である。
故に黒幕が、三浦義村と北条義時のどちらかの場合であっても、この様な流れの中にはやはり、「源平交代 政権思想」が少なからずあったのではないかと、私は考えている。そして、結果的に、執権職を行う平氏の血 筋の北条氏が政権を担当する事となる。
こうして、2回目の政権交代が行われる事になるわけだが、源氏将軍家が滅亡し、執権北条氏が事実上の幕 府の実権を掌握した。これは、北条氏が平氏の末裔と言う事から、平氏政権が再来した事を意味している。
北条氏は、政権の掌握後も戦国大名の分国法にも大きな影響を与える「貞永式目(御成敗式目)」(123 2年・貞永元年)を制定する。
以後、1333年(弘仁3年)まで鎌倉幕府を存続させる事となる。

(3)室町時代
鎌倉中期に「元寇」が起こると、それ以後の鎌倉幕府の対処により御家人達の支持が低下して行った。
そのような状況下で、後醍醐天皇の皇子である護良親王や楠木正成らも畿内武士を結集・蜂起し幕府軍と交 戦し、足利高氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、1333年(弘仁3年)に鎌倉幕府は滅亡す る。
これを「建武の親政」と呼ぶのであるが、以後、南北朝の動乱期を向かえ、足利尊氏が京都室町において1 336年(建武3年)に光明天皇を擁立し、「建武式目」を発表する。
「建武式目」は、室町幕府を成立させる目的であったが、「建武の親政」は光明天皇を擁立した時点で崩壊 する。その期間、わずか3年たらずであった。
足利尊氏が室町幕府を成立させると言う事は、再び、清和源氏の血筋によって、政権を担われる事を意味す る。
その後、室町幕府は15人の将軍を出し、織田信長によって15代将軍足利義昭が追放されるまで存続する 事になる。
足利氏は清和源氏であり、「八幡太郎」と言われた源義家の孫である源義康が下野(栃木県)足利郡足利庄 によって、足利氏を称したのが始まりである。他に藤原秀郷(ひでさと)の流れの藤原氏系足利氏があるが、室 町幕府を成立させたのは、清和源氏の流れの足利氏である。
また、源義康の兄である源義重の子孫からは、足利尊氏と同時期に活躍した、新田義貞に代表される新田氏 が出ている。

(4)安土・桃山時代〜江戸時代
安土・桃山時代と言うと、「織豊政権」と形容される様に、織田信長・豊臣秀吉によって成立した時代と言 って良い。
また、事実上、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げているわけである。そして、その天下統一の志は織田信長か ら受け継いだものなので、「織豊政権」と言う言葉を生みだした事から、織田信長に関しても天下統一の前段 階を成していた者として、政権獲得者と拡大解釈して話を進めて行きたい。
1573年(天正元年)に織田信長によって、室町幕府15代将軍足利義昭が追放され、室町幕府が滅亡す る。これは、将軍の権力回復を狙った足利義昭と織田信長の対立が原因だと言われている。以後、織田信長の 天下統一事業は、大きな転機を迎える事になるが、志半ばにして明智光秀の謀反により自害してしまう。明智 光秀の謀反の理由は、「源平交代政権思想」の裏にある平氏征夷大将軍阻止ではないかと考えている。 甲斐(山梨県)に勢力を置く武田氏を天目山の戦い(1582年・天正十年)で滅亡させると、その織田信 長に対し朝廷は、「織田信長に征夷大将軍職を・・・。」と言う内容を帯びた勅使を安土に派遣している。本 能寺の変(1582年・天正十年)の1ヶ月前の事である。
武田氏を滅ぼし、織田信長の天下統一事業の前進に対し、朝廷が「織田信長に征夷大将軍職を・・・。」と 言った事も理解可能な範疇である。しかし、実は、問題はそこにあったのである。
その問題点とは、正に「源平交代政権思想」である。
本来、織田氏は藤原姓であると言われている。現に織田信長自身も若い頃には、「藤原信長」と公式文章な どに署名した事もあったくらいである。
ところが、織田信長も「源平交代政権思想」の概念から、源氏(清和源氏)の子孫である足利氏に変わって 天下を取るには、平氏姓(桓武平氏)である方が好都合だと考え、藤原氏から桓武平氏に乗換えるのである。 故に、朝廷が系図上、平氏である織田信長に「征夷大将軍職を・・・。」と言い出した事は、そう言った従 来の慣習を破るものであった。織田信長も、先例にこだわるたちの人物で無く、そう言った先例をむしろ、打 ち破る事に生きがいを感じた男なので、朝廷からの申し出には大喜びをしたようである。
しかし、明智光秀は、源氏(美濃源氏)の末裔であるが故に、胸中穏やかではなかったようだ。
明智光秀の明智氏は、土岐氏の一族と言われ、そのルーツは次の通りである。
土岐氏は、清和源氏から出て美濃国の豪族となったものであり、源頼光の子源頼国の曾孫源光信が、美濃国 土岐郡土岐郷に住んで土岐氏を称した事に始まる。源光信は、鳥羽院4天王の1人と称され、また出羽守とな って出羽半官となった人物である。
また、次のような説もある。
「尊卑分脈」によると、源頼光の7世孫土岐光行から4代目の土岐頼基の時、その子土岐頼重が明地彦久郎 を称したのが始まりと言うものである。(これによれば、始めは「明智」では無く、「明地」であった可能性 がある。)
いずれにせよ土岐氏は、美濃源氏と言われるように清和源氏の流れにあり、明智光秀の明智氏もそれに連な っていたために、系図上、平氏である織田信長の征夷大将軍の任命は許し難い事であった。そう言った意味で 私は、自分の体を張ってでも明智光秀は、これを阻止しようとしたのではないかと思うである。
しかも明智光秀は、室町幕府の最後の将軍である15代将軍足利義昭に仕えたと言う事実もあって、有職故 実に通じていた文化人だったと言う側面もある。織田信長を倒した後のこれと言ったビジョンも無く、体制も 無いままで、その動きがいかにも急だったと言われるが、そこには、源氏のプライドが影響していのではない だろうか。
以上の点から、織田信長を明智光秀が裏切った理由は、「源平交代政権思想」の裏にある平氏征夷大将軍の 阻止にあったと考えたのである。
ちなみに明智氏が出た美濃源氏からは、「忠臣蔵」で有名な浅野長矩に代表される浅野氏が出ている。
平氏に乗り換えた織田信長が、源氏の子孫である足利氏の室町幕府を滅ぼして天下に号令した。これを私は、 朝廷からの「征夷大将軍職を・・・。」の趣旨を帯びた勅旨が来ている点、更には、その後の豊臣秀吉の天下 統一の基礎的な部分を担った点を加えて、事実上、政権獲得者として拡大解釈した。
そして、織田信長を政権獲得者であると解釈すると、本能寺の変(1582年・天正十年)で明智光秀の謀 反に遭ってしまうが、ここでは、足利氏(源氏)→織田信長(平氏)→明智光秀(源氏)と言った合計2回の 源平政権の交代が行われたと解釈する事が出来る。
本能寺の変後、明智光秀は山崎の合戦(1582年・天正十年)により羽柴秀吉に敗れ、居城近江坂本へ帰 路途中の京都校外で殺される。「3日天下」と言う言葉は、その時の明智光秀の天下を形容した言葉である。 明智光秀を山崎の合戦(1582年・天正十年)で倒したその後、柴田勝家などの織田信長の有力な家臣な どを破り、1590年(天正18年)に織田信長の意志を継いだ豊臣秀吉が全国を統一する。
しかし、ここで注意しなければいけない事は、豊臣秀吉の血筋である。
豊臣秀吉は農民出身であるが、先ほど述べた通り明智光秀が源氏の血筋、そして、豊臣政権の後に江戸幕府 を開いた徳川家康も新田氏(清和源氏子孫)の子孫であると言われている。これを鑑みると、源氏の血筋に挟 まれているのが解かる。そして、豊臣氏を平氏と仮定する事で、江戸幕府の創始者である徳川氏まで、平清盛 から始まる「源平交代政権」が続く事となる。
以後、1867年(慶応3年)10月14日に幕を閉じるまで徳川政権が続くのであるが、「源平交代思想論」 =「武家政権論」と言う事が出来ないだろうかと考えている。

第4章まとめ
「源平交代政権思想論」の論点は、幕府開設時の征夷大将軍の血筋が源氏である点、源・平の血筋により政 権が担われたと言う点の2点である。
そして、明智光秀と織田信長を例に「源平交代政権思想論」を述べたが、この政権交代が1番色濃く出たの が、この時期(織豊政権時代)ではないかと私は、考える。

以上が、「源平交代政権思想論」である。

第5章子孫・末裔
これまで「源平交代政権思想論」について述べて来たが、源氏・平氏おける交代政権担当者以外の子孫や末 裔についても、少し説明しておきたい。その点に関して、これまで述べて来た内容と多少重なる部分もあると 思うが、ご容赦頂きたい。

(1)源氏の子孫・末裔
源姓は計19存在し、公家・武家の流れに種類分けする事が出来る。この事は、「第1章」でも説明をした。 公家源氏は武家源氏よりも繁栄はしなかったが、このような状況の中でも明治まで続く氏族もあった。その 中でも、日露戦争で活躍した乃木希典(乃木氏)は、宇多源氏の子孫であるとされている。
次に武家源氏の流れである。
清和源氏が武家源氏の代表例であり、後に源頼朝が出て鎌倉幕府を成立させる事は、言うまでもない。 子孫・末裔としては、室町幕府を成立させる足利氏はもちろん、吉良氏・今川氏・明智氏、そして、江戸幕 府を開設した徳川氏などが挙げられる。
また、戦国時代に武田信玄が出た武田氏や1992年(平成4年)に日本新党を結成し、翌年に内閣を組閣 した細川護煕氏が出た細川氏、そして、夏目漱石で有名な夏目氏、板垣退助が出た板垣氏も源氏の血筋である。
ちなみに細川護煕氏は、母方の祖父が藤原氏北家5摂家の筆頭である近衛氏出身の近衛文麿である事から、 藤原氏(北家)の末裔と言う事も可能である。この事から藤原氏が、藤原鎌足が藤原姓を賜ってから、細川護 煕内閣総辞職まで千年以上も政治に携わっていたと解釈する事が出来る。

(2)平氏の子孫・末裔
「第1章」でも述べた通り、4つの平姓の中でも桓武平氏、特に伊勢平氏が繁栄した。
末裔・子孫は、鎌倉幕府執権の北条氏、戦国時代に鉄砲が伝来した事が有名な種子島を支配していた種子島 氏や河越氏、そして、「第3章」でも登場した三浦氏が挙げられる。
平姓は現代まで続いている氏族もあるが、平安時代末期に源氏の手により平氏の嫡流が滅ぼされると、平姓 はだんだん使用されなくなった。そして、本姓の平氏姓から離れ源氏姓・藤原姓などに乗り換える者も現れた。

以上が、簡単ではあるが、源氏・平氏の子孫・末裔の説明である。

第6章終わりに
今回の論文を執筆するに当たり、私が、大学においての専門領域をどうするか試行錯誤時期であった事を言 っておきたい。
元来、私は中学時代の社会科の先生の影響もあり、社会科(日本史)の教員になろうと思っていた。歴史学 が好きになったのもその先生のお陰であるし、今でも感謝の想いは忘れていない。
今回の論文のテーマは、「源平交代政権思想論」であり、日本中世史の領域である。
私は法学部の学生であるが、法学部、特に政治学の分野では、近・現代政治史を専門とするのが普通である。
しかし、私は、日本中世史を専攻しようと思っている。それは、私の日本中世史への漠然とした想いがあっ たからである。ただ、その漠然とした想いが言葉や文章では、上手く説明出来ないのが残念であるが・・・。

【関係者各位】
今回の論文を執筆し、改めて、自分が今後どうであるかを考える良いチャンスになりました。
最後になりますが、このようなチャンスを与えて頂いた、平成言論会顧問である平成国際大学教授の高乗正 臣先生、研究会でもお世話になっている同じく平成言論会顧問・平成国際大学教授の慶野義雄先生、そして、 平成言論会会長の清水一憲さんには、心からお礼を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。

●引用文献・参考資料
この論文の執筆において、引用・参考させて頂いた文献・資料である。

日本の歴史がわかる本【室町・戦国〜江戸時代】篇/小和田哲男著/三笠書房
《人物篇》日本の歴史がわかる本【南北朝時代〜戦国・江戸時代】/小和田哲男著/三笠書房
歴史おもしろかくれ話/小和田哲男著/三笠書房
日本史小百科家系/豊田武著/近藤出版社
氏姓の語源/丹羽基二著/角川書店

<歴代征夷大将軍の一覧>
時代/代 氏名 本姓
古代 大伴弟麻呂
坂上田村麻呂 正三位 大納言
文室綿麻呂
平安 木曽義仲 源氏
鎌倉 1 源頼朝 源氏 正二位 権大納言
2 源頼家 源氏
3 源実朝 源氏 正二位 右大臣
4 藤原頼経 藤原氏
5 藤原頼嗣 藤原氏
6 宗尊親王 宮・親王
7 惟康親王 宮・親王
8 久明親王 宮・親王
9 守邦親王 宮・親王
建武 護良親王 宮・親王
成良親王 宮・親王
室町 1 足利尊氏 源氏 正二位 権大納言
2 足利義詮 源氏 正二位 権大納言
3 足利義満 源氏 従一位 太政大臣
4 足利義持 源氏
5 足利義量 源氏
6 足利義教 源氏
7 足利義勝 源氏
8 足利義政 源氏
9 足利義尚 源氏 従一位
10 足利義稙 源氏 従一位
11 足利義澄 源氏 参議
12 足利義晴 源氏 従三位 大納言
13 足利義輝 源氏 従四位下 参議
14 足利義栄 源氏 従五位下
15 足利義昭 源氏 従二位 権大納言
江戸 1 徳川家康 源氏 従一位 太政大臣
2 徳川秀忠 源氏 従一位 太政大臣
3 徳川家光 源氏 従一位 左大臣
4 徳川家綱 源氏 従一位 右大臣
5 徳川綱吉 源氏 正二位 右大臣
6 徳川家宣 源氏 正二位 内大臣
7 徳川家継 源氏 正二位 内大臣
8 徳川吉宗 源氏 従一位 右大臣
9 徳川家重 源氏 従一位 右大臣
10 徳川家治 源氏 従一位 右大臣
11 徳川家斉 源氏 従一位 太政大臣
12 徳川家慶 源氏 従一位 左大臣
13 徳川家定 源氏 正二位 内大臣
14 徳川家茂 源氏 従一位 左大臣
15 徳川慶喜 源氏 正二位 内大臣
注:官・位とも追贈を除く。なお、不明部分については空白とした。

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